奈良時代末創建の名刹「粉河寺」
世界遺産の高野山の北、紀の川が造る谷に建つ名刹が「粉河寺」だ。
奈良時代末に創建され、清少納言の「枕草子」にも登場したり、一時期は僧兵をかかえ城まで構えており半ば独立した寺院国家の様相を呈するなど由緒正しい寺院とされている。
この地域を訪れる多くの人の目的地は高野山のため素通りしてしまうようだが、広々とした伽藍は非常によく整備されており、ぜひ立ち寄ってほしい寺院だ。
アクセスは簡単だが駐車料金が高い
粉河寺は有名な寺院なので、着くまでの道中には案内看板もしっかりありアクセスは簡単だ。
TEL:0736-73-4830
WEBSITE:https://www.kokawadera.org/
京奈和自動車道を使って来るなら紀の川インターチェンジで降り、突き当ったら右折する。
1kmほど進むと県道7号線との交差点があるので左折しさらに3kmほど進むと県道は右折するので、それにしたがって(案内看板あり)進み500mも行くと左に赤い橋のかかった信号があるので左折してその橋を渡るとすぐに大きな寺院の大門(重要文化財)が見えて来る。
大門の手前にも民間の駐車場があるが、寺院まではまだ距離があるのでそのまままっすぐ進み山門の右手を抜けていくと右手にみやげ物屋があるのでその角を右折して小さな橋を渡ったところに寺院の駐車場がある。
駐車料金は寺院直営(料金収受はみやげ物店が代行している)も近隣のみやげ物屋がやっているところも、すべて500円となっている。
おそらく、協定価格なのだろうが休日や行楽シーズンならまだしも平日のほとんど人がいない時に行くとひどく割高、もっと言ってしまうとぼったくりにすら感じられてしまう。
とはいえほかに選択肢があるわけではないので、料金を払って駐車せざるを得ないのだが……
奈良時代末の創建。僧兵をかかえるなど大寺院だった
粉河寺は天台宗系粉河観音宗の総本山であり、正式名は「風猛山 粉河寺」という。
寺院のサイトならびにウィキペディアによれば、奈良時代末の宝亀元年(西暦770年)に紀伊国那賀郡に住む猟師大伴孔子古(おおとものくじこ)が光明輝く地を発見し柴の庵を建てたのが発祥とされている。
平安時代には朝廷や貴族の保護を得て栄え、清少納言の「枕草子」や西行の「山家集」にも寺院についての記述が認められるという。
鎌倉時代に入ると、4km四方の境内を有し寺領を4万石もあって550か所の子寺ができるなど金剛峯寺や根来寺と肩を並べるほどの大寺院となった。
また戦国時代の天正元年(1573年)には境内南側に城まで構え僧兵も多数かかえるなど、なかば独立した寺院国家のような存在になっていたという。
しかしながら、豊臣秀吉の紀州征伐によって城を含めそのほとんどを焼失してしまったとのことで、もしそれらが現存していたらどんな姿をしていたのだろうか。
現存する建築物の多くは、正徳3年(1713年)の火災以降に紀州徳川家の庇護と信徒の寄進によって再建されたものだ。
参道に沿って堂などがずっと続く
寺院の伽藍は整然としており、右手に流れる小川に沿って造られた参道の両脇にいくつもの堂などが並んでいる。
中に入って参拝できる場所は少なく、ご本尊の千手千眼観世音菩薩も秘仏となっている。
それどころか、ご本尊の代わりに安置されたいわゆる「お前立ち」像までが秘仏となっており、まったく眼にすることができないのが残念だ。
自分が普段暮らしているチェンマイ(タイ)にも秘仏がないわけではないが、それはご本尊ではなく、普通は誰もがウィハーン(本堂)の中に入って自由に参拝することができ、お坊さんなどとも気軽に話をしたりすることも可能だ。
同じ仏教とはいえ、上座部仏教と大乗仏教の違いと言ってしまえばそれまでだが、日本の寺院の多くが非常に閉鎖的(と自分には感じられる)で気軽に参拝できる雰囲気でないのは、やはり残念に思う。
余談はさておき、伽藍には以下のような建造物がある。
童男堂
念仏堂
太子堂
盥漱盤
中門(重要文化財)
丈六堂
本堂(重要文化財)
本堂周辺の仏像と木彫
鐘楼と本堂
本堂裏にある十全律院への参道
高野山と合わせて参拝するのがおすすめ
冒頭に記した通り、紀の川市は高野山を目的とした人々にとっては単なる通過点で、ほとんどの人はこの粉河寺にも立ち寄ることがないようだが、これまで述べて来た通りなかなかの来歴を持つ名刹であり、見どころも多いのでぜひ参拝してほしい。
高野山の上にある寺院とはまたまったく別の魅力を感じることができるはずなので、合わせて参拝してその雰囲気の違いを味わうのがいいと思う。
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